5 0年前のいちごババロア
これまでご紹介してきた『暮しの手帖』の料理記事は、モノクロか2色印刷でした。昭和30年頃からカラーページが登場し始めますが、それは1冊の中のごく一部という時代が長く続きます。予算の限界もあったでしょう。でもそれだけにそこにかける花森さんや鎭子さんたちの熱意が強く伝わってくるページがいくつも残されています。
昭和40年春刊行・79号の「いちごのババロア」もそのひとつ。ピンクの濃淡でコーディネートされた見開き全面の写真はど迫力、カラー写真が当たり前の今でも、ページをめくる手が止まります。誘われて読み進むと、わずか4ページの料理記事の中に、この当時の世相が垣間見えてきます。
初 夏のお菓子
たとえば、いちごのババロアは「初夏の感じいっぱいのお菓子」と書いてあります。そして「近頃出ている粉末クリームを使った」レシピである、とも。
そうでした、そうでした。21世紀の今のスーパーでは、いちごはクリスマスには店頭に並び、粉末クリームの棚はとても狭くなっているけれど、探偵の50年前の記憶をひもとくと、甘く香るいちごを食べていた時はちょうちん袖のブラウスを着ていたし、コーヒー用の粉末クリームは常備されていて、母に隠れて舐めるのが楽しみでした。パウダー状で上あごによくくっつきました。
消 費量が100倍に!
いちごが農林省の食糧統計年表に登場するのは昭和38年。みかんやりんごに比べると統計上は新参者ですが、ハウス栽培の普及などの影響でそれから10年後には生産量が3倍に。庶民でも食べやすくなったようです。当時の料理専門誌「栄養と料理」を見てもいちごは人気者。毎年のように特集が組まれているのですが、昭和40年代は5月号掲載が主流だったものが50年代になると4月号に移動。少しずつ早まってきているのがわかります。
一方インスタントコーヒーが、昭和35年に国産第1号が発売され、翌年発売された「クリープ」は5年後の昭和41年にはその消費量がなんと100倍になったそう(森永乳業のホームページより)。街で人だかりがあれば「なになに?」と好奇心いっぱいで近づいて行く鎭子さんがそんなニュースを逃すはずはありません。当時編集部のあった銀座の洋菓子店のババロアも、「家でつくれるんじゃない?」とひらめいたのではないでしょうか。
ア ンバランスな感じ
そんな世相を背景にした「いちごのババロア」を再現してみました。材料はいちごと粉末クリームの他、牛乳、卵、砂糖、ゼラチン。いつものように写真も文章もとてもていねい。自分で作ったとは思えないほどかわいいピンクの、ふんわりデザートが完成しました。生クリームのコクと口当たりを、粉末クリームと泡立てた卵白が担うのです。家族にも大好評でしたが、実は探偵、第5話めにしてはじめて「これはたいへん!」と思ってしまいました。材料は冷蔵庫の常備品や乾物。気が向いた時に作れそうな気にさせておきながら、手間がかかるのです。
つっこみはじめると、ババロアを固めるのにアルミの弁当箱を使いながら布ナプキンまで添えたテーブルセッティングも、熱意は伝わるけれど、アンバランスな気がしてきます。それこそが昭和40年頃の気配なのかな、とも思うのですが。
バ バロアの思い出
偉そうな物言いをしていますが、この記事が掲載された昭和40年、地方都市の駄菓子屋で買い食いをしていた探偵は、ババロアも生クリームもゼライスも知りませんでした。母が作るぷるぷる系のおやつといえば寒天のみ。高校の調理クラブで実習したからと従姉が作ってくれた「泡雪寒天」は泡立て器の代用に箸を何本か重ねて撹拌したため、泡は分離するわ、卵臭いわでむりやり食べた暗い記憶があります。鎭子さんが仕事をしていた銀座とは格段の差があったと思います。
ババロア、と聞くと懐かしさを覚える人もいるようですが、探偵のババロアとの出会いは、記事掲載から10年以上後、大学入学で上京してからになります。吉祥寺の洋食屋さんでの感動は今でも鮮明に覚えていて、時々食べたくなります。ババロア、踏み絵になるかもしれません。